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浦和地方裁判所 昭和60年(ワ)502号 判決 1986年5月30日

原告 株式会社サロン・ド・リリー

被告 黒田早紀子

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

「1 被告は原告に対し、金三〇万円及びこれに対する昭和六〇年三月一〇日から支払済みに至るまで年三割六分の割合による金員を支払え。2 訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行宣言

二  被告

主文同旨の判決

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は美容室の経営を業とする株式会社である(以下原告会社という。)が、被告は、昭和五九年三月一二日、原告会社との間で雇用期間昭和五九年四月一日から同年五月三一日まで、職種美容等の就業条件で試用準社員労働契約を締結し、次いで同年六月六日原告との間で雇用期間同年六月一日から、昭和六二年五月三一日まで、職種同前、賃金昭和五九年六月分のみ月額八万九〇〇〇円、同年七月からは月額九万円等の就業条件で準社員労働契約を締結し、同年四月一日より、原告の従業員として、稼働していたものである。

2  原告会社は、新入社員に対し、その入社当初から美容技術等に関し熟練者として養成するため、多額の費用をかけて指導訓練しているが、右指導訓練による美容技術を身につけながら原告会社の意向を無視し勝手に会社を辞めてしまう者がいるため、新入社員が主として勝手に辞めるなどの行動を防止するため、新入社員との間で、新入社員が原告会社の正当な意向を無視し、勝手に退社するに至つた場合、新入社員は原告会社に対し、<1>美容に関する指導訓練に必要な諸経費として、入社月に遡つて一か月につき金四万円の講習手数料を支払うこと、<2>右の講習手数料は、原告会社より請求があつた日から一週間以内に支払うこと、<3>もし支払なき場合、右の請求のあつた日以後年三割六分の遅延損害金を支払うことを内容とする講習手数料契約を締結しているところ、昭和五九年六月八日被告との間で上記内容の契約(以下本件契約という。)を締結した。

3  しかるに、被告は昭和五九年一一月一八日、原告会社の意向を無視し、勝手に退社した。

よつて、原告会社は右講習手数料契約に基づき、入社月である昭和五九年四月一日に遡り、七・五か月分の講習手数料の合計金三〇万円並びにこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和六〇年三月一〇日から支払済みまで右契約所定の年三割六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因1の事実は認める。同2の事実は否認する。同3の事実のうち、被告が昭和五九年一一月一八日に退社したことを認め、その余は否認する。なお、被告が原告会社を退社したのは、原告会社代表者から男女の交際を目的としてホテルに誘われたからであつて、原告会社から責められるような事由は何ら存在しない。

三  抗弁

かりに、原告主張の講習手数料契約の成立が認められるとしても次に述べるような事由により契約の効力は存しない。

1  労働基準法第一六条違反による無効

(一) 被告は高校卒業後一年間美容専門学校で訓練を受けたのち、原告会社に美容見習いとして就職したものであるが、原告会社から美容技術の指導訓練を受けながら、仕事をするという立場上、そもそも給料自体を低額(基本給一か月九万円)に押さえられており、これと別個に月額四万円もの講習手数料を支払わねばならない理由がない。

(二) 右講習手数料は本件契約上「会社側より講習手数料を請求されない時は支払義務なし」とされ、被告において原告会社に迷惑をかけた場合にのみ、入社月にさかのぼつて請求されることにされており、通常の講習料支払方法とは異なる。

(三) したがつて、この講習手数料契約というのは単なる名目にすぎず、その実質は労働契約の不履行について損害賠償予定金ないし違約金を定めるものであるから、右契約は労働基準法第一六条に違反し、無効である。

2  公序良俗違反による無効

(一) 本件契約では、従業員が「勝手わがままな言動で会社側に迷惑をおかけした場合」講習手数料を支払う義務を負うとされ、かつ被告の「勤務態度によつて会社側より講習手数料を請求されない場合は支払義務なし」とされており、従業員が支払義務を負う場合と負わない場合の区別の基準があいまいであり、原告会社の恣意的判断を許すものである。

(二) また、本件契約にもとづき、一か月九万円の給料で働いている従業員にとつて一か月四万円という高額な講習手数料の支払、しかも入社月にさかのぼつて支払をすることは従業員の支払能力をこえている。

(三) 結局、従業員は講習手数料の支払義務を負わされないようにするために原告会社の意向に対し全面的に従うの他ないのであり、本契約は従業員に原告会社に対する隷属を求めるものであり、従業員の自由を著しく拘束することになる。

したがつて、本件契約はこの点からみても無効である。

3  未成年を理由とする取消

(一) 被告は本件契約締結当時、一九歳一一か月の未成年であつた。

(二) 被告は原告に対し、昭和六〇年九月六日の本件口頭弁論期日において、本件契約を取消す旨の意思表示をした。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は否認する。本件講習手数料は、労働契約の不履行についての違約金でも損害賠償の予定でもない。なるほど本件契約上、従業員が右手数料の支払義務を負う場合と負わない場合の区別の基準が明確ではないが、本来ならば講習手数料を支払うべきところを、従業員のために有利に支払義務を負わない場合もあることを定めたにすぎない。

2  抗弁2の事実は否認する。美容の仕事は、一般の職場における教育研修と著しく異なり専門的分野に属する仕事であるから、新規従業員に対して美容技術その外の作法につき教育する必要があり、そのために原告会社は従業員に対し、美容専門学校に匹敵する人的物的設備を設け、多大の費用をかけて右教育をしているのである。また、講習手数料の請求は採用一年以内の退職に適用され、その後の退職には適用されないものとしており、また従業員が病気、転居その他正当な理由で退職した場合には右手数料を免除することになつているのであるから、被告が原告会社の意向に全面的に従わねばならぬ事態は生じない。

3  抗弁3の事実は認める。

五  再抗弁(抗弁3に対して)

被告は本件契約を締結するにあたつて、事前に両親の同意を得た。

六  再抗弁に対する認否

再抗弁の事実は否認する。

第三証拠<省略>

理由

一  本件契約の成立

1  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

2  そこで、まず、本件契約の成否について判断するに、いずれも成立に争いのない甲第二、第三号証、原本の存在、成立とも争いのない乙第二、第三号証と原告会社代表者及び被告の各本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すれば、原告会社の準社員であつた被告は、昭和五九年六月八日原告会社南浦和西口店のプライベートルームで、原告会社代表者から、「誓約書」なる書面を示されて、美容技術を教えてもらいながら突然やめられたら困るし、右書面を作成しないと皆が教わつていることを自分だけ教えてもらえないという技術面でのマイナスがあるなどという趣旨の説明を受けたうえ、右書面に署名押印するよう求められたこと、右書面には、「万一、私が会社からの色々な指導を自分の都合でお願いしているにもかかわらず勝手わがままな言動で会社側に迷惑をおかけした場合には、下記のことをお約束します。記、1、指導訓練に必要な、諸経費として入社月にさかのぼり一か月につき金四万円也の講習手数料を御支払いいたします。2、上記講習手数料は、会社より請求があつた日より一週間以内に御支払いいたします。3、それ以後は、金利(月利三パーセント)を加算することとします。但し、私の態度によつて、会社側より講習手数料を、請求されない時は支払義務なしとさせて頂きます。」等の記載があつたこと、被告は原告会社代表者の右説明を聞いたうえ、右書面に目を通し、その内容を理解したうえ、これに署名、押印したこと、また、右書面上は「勝手わがままな言動で会社側に迷惑をかけた場合」の内容が必ずしも明らかではないが、右当時、原告会社代表者と被告との間では、原告会社の美容指導を受けたにもかかわらず原告会社の意向に反して退職した場合をさすものとの了解がなされていたことが認められ、右認定に反する証拠はない。以上によれば、昭和五九年六月八日に原告会社と被告との間で、右了解の内容となつている退職を停止条件として、入社時に遡及して月額四万円の講習手数料を支払う旨の契約が成立したことが認められる。

二  本件契約の効力

1  被告は、本件契約が労働基準法第一六条に違反するから無効であると主張するので、この点につき判断することとする。

2  ところで、労働基準法第一六条が使用者に対し、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償を予定する契約をすることを禁じている趣旨は、右のような契約を許容するとすれば労働者は、違約金又は賠償予定額を支払わされることを虞れ、その自由意思に反して労働関係を継続することを強制されることになりかねないので、右のような契約を禁じこのような事態が生ずることを予め防止するところにあると解されるところ、当該契約がその規定上右違約金又は損害賠償の予定を定めていることが、一見して必ずしも明白でないような場合にあつても、右立法趣旨に実質的に違反するものと認められる場合においては、右契約は同条により無効となるものと解される。そして、当該契約が同条に違反するか否かを判断するにあたつては、当該契約の内容及びその実情、使用者の意図、右契約が労働者の心理に及ぼす影響、基本となる労働契約の内容及びこれとの関連性などの観点から総合的に検討する必要がある。

そこで、本件についてみるに、いずれも成立に争いのない甲第一号証の一、二、第二、第三号証、第七ないし第一一号証の各一、二、原本の存在、成立とも争いのない甲第四号証、乙第二、第三号証と原告会社代表者及び被告本人の各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

本件契約の内容は、前記一2で認定したように、被告が原告会社から、美容指導を受けたにもかかわらず、その意向に反して退職した場合に被告の入社時に遡及して月額四万円の講習手数料を支払う、右講習手数料の支払期限は、原告会社より請求のあつた日より一週間以内とされ、それ以降は、月利三パーセントの遅延損害金を支払うというものであること、また本件契約にいう指導は、技術訓練(集合トレーニング、店舗内練習、早朝練習、営業終了後練習)、ヘルプ作業をするための数多くのアドバイス、スタイリストになるための指導、接客による実地訓練、常識ある社会人への指導等をその内容としていること、原告会社代表者は、美容指導を受けた従業員が、突然退職しては会社にとつて不都合であるとの配慮から本件契約条項を案出し、本件契約を締結する際にも右意図を被告に説明していること、本件契約条項を読んだ被告は、金銭に縛られて働くことはいやだという気持ちを抱いたが、当時は、原告会社に続けて稼働したいとの希望があり、また、原告会社代表者から、美容技術に関し、他の従業員皆が教わつていることを教えてもらえない旨言われたため、本件契約締結に応じたこと、右講習の実情は、毎週金曜日に一度午後七時から午後九時までの勤務時間外に、指導対象者を営業店舗内に集合させて、原告会社の管理者兼任の指導員が、洗髪、カツト、カール、パーマ、セツトなどの指導を行なう集合トレーニングと、希望者が自ら要望した時に随時右と同様の指導を受ける方式がとられていたこと、また、右講習の対象者は、原告会社との間で講習手数料契約を締結した者に限らず、アルバイトの者を含め、右契約を締結をしない一般の従業員をも含むものであつたこと、さらに、右指導のために原告会社が負担する費用は、指導員の人件費が主であり、その他に設備費や光熱費もあるが、原告会社は、右指導員らに対して給料とは別個の名目で指導料などの支給は行なつていないこと、他方、原告会社との労働契約にもとづき被告が行つてきた業務は、主として客に対するブロー、シヤンプー、ワインデイング等カツトを除いた美容一般の作業であつて、本件契約にもとづく指導内容と極めて近似したものであること、しかも、原告会社と被告間の本件契約の締結は、右当事者間の準社員労働契約締結の二日後であること、加えて、右労働契約における被告の給与額は、月額八万九〇〇〇円ないし九万円とされているのに対し、本件契約にもとづく講習手数料は月額四万円とされ、前者に対する後者の比率がかなり高いうえ、当然のことながら、従業員が講習手数料を支払う場合には、原告会社に在職する期間が長い者ほど支払うべき講習手数料額が累積する関係にあることが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

以上に認定した本件契約の目的、内容、従業員に及ぼす効果、指導の実態、労働契約との関係等の事実関係に照らすと、仮令原告が主張するようにいわゆる一人前の美容師を養成するために多くの時間や費用を要するとしても、本件契約における従業員に対する指導の実態は、いわゆる一般の新入社員教育とさしたる逕庭はなく、右のような負担は、使用者として当然なすべき性質のものであるから、労働契約と離れて本件のような契約をなす合理性は認め難く、しかも、本件契約が講習手数料の支払義務を従業員に課することにより、その自由意思を拘束して退職の自由を奪う性格を有することが明らかであるから、結局、本件契約は、労働基準法第一六条に違反する無効なものであるという他はない。

三  結論

以上のとおりであるから、その余の点について判断するまでもなく原告の請求は理由がない。

よつて、原告の本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 小笠原昭夫 野崎惟子 樋口裕晃)

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